惣譽酒造株式会社

大震災の日

2017
425
Tue

東日本大震災から311日で6年が経った。今も2553人の方が行方不明であり、15893人の方が亡くなったということだ。

私たちの暮らす栃木県東部も、大きな被害を受けた。幸い、わが社は1人の怪我人も出すことなく過ごすことができたが、大谷石でできた倉庫や酒蔵は一部崩壊していて、近くに人がいれば危険な状況であった。地震発生時刻の午後246分、皆、鉄骨造の瓶詰め室や木造の仕込み蔵で作業をしており、無事であった。

ここ、栃木県芳賀郡市貝町は、地盤が堅くはないということが、この前の地震でよくわかった。震度6強から震度7を記録している。

昼過ぎより、蔵を案内した客もお帰りになり、陽が陰る前に洗濯物を取り込んで、居間の床に座って、たたんでいた。グラグラし始めた。地震だ。あれ?結構揺れるな。薄型のテレビの上端を倒れないように片手で抑える。それどころではなかった。やがて、ガスコンロの上の鍋に残っていたみそ汁ががちゃーんと飛び散った。食器の割れる音。中庭で飼っている柴犬のクンちゃんが大慌てでガラス窓をカシカシしている。だんだん揺れは激しくなり、中庭の向こうの板塀があちら側に倒れて、視界から消えた。その上を柴犬がぴょーんと飛び越えて道の方へ逃げていく。私も逃げなくちゃ。待って、クン。窓を開けて外へでた。しかし、もう立っていられない。軒下に置いてあった酒のP箱に捕まってしゃがみ込む。目の前の中庭の砂利の上に瓦がガチャンガチャン落ちてくる。だめ、ここにいた方がいい。軒下でじっとしている。

信じられない光景であった。木造2階建ての家の開口部が平行四辺形になって、左右に揺れている。アルミサッシも雨戸もなにもかも外れて落ちていく。本棚がそのアルミサッシに倒れこんでガラスが飛び散る。いつまで続くの?長かった。どんどん強くなる揺れが延々と続いていた。

とても長く感じられたが、5分ぐらいだったのだろうか?揺れがおさまった。皆はどうしただろう。家のなかに戻った。散乱している家財道具をよけながら、蔵の台所に行く。人影はない。

シャーッと水が噴き出している管が天井近くにあった。電気温水器の貯湯タンクが倒れて給水管が引きちぎられ、あたり一帯が水浸しだった。

みんな、どこ?事務所の入り口を急ぎ足に出てみると、女の人たちが寄り集まって震えていた。皆、無事だ。しかし、事務所の前も、周りの建物から瓦が降ってくる。揺れはまだ、頻繁に起こっていた。どこか建物のないところに避難しようということになり、となりの畑に皆で移動した。

杜氏がラジオを耳に当てて聞いている。「津波が来てるぞ。」「一番に来るのより、次のが大きいのだからな。」「船が陸に打ち上げられてる」

何もかもが、異常事態だった。夢のなかの出来事のよう。でも、現実なのだ。

蔵人が建物の奥から出てきた。「空のタンクの中でスポンジ持って洗ってたら、

ころころ転がされちゃった。」恐ろしかったであろう。

車の上に、瓦などが落ちてきたらダメになる、と思って、配達のトラックも営業車も、建物の混みあった工場敷地内でなく、向かいの駐車場に移した。日が暮れてからは、数名ずつ車の中で過ごした。カーラジオで各地の状況を聞く。やはり、津波の被害が著しいようだ。

しかし、ここ栃木も、建物すべて廃墟と化し、ひび割れ、大谷石の建造物の倒壊、土台が動いて柱が浮いている、など、もう、造り酒屋は続けていけないのではないかと思った。

311日は、甑倒しは済んでいて、米を蒸かす作業は終わっていたが、発酵中のもろみはまだあって、岩手から季節で働きに来ている蔵の人たちもここで生活していたので、食料調達係の私は、一番に食べ物の確保を考えた。外出していた主人に、カップ麺とおにぎりと水とカセットガスコンロをできるだけ沢山買ってきてと、やっと通じた携帯で訴えた。しかし、義父は、揺れがおさまった時点で、瓶詰めラインの復旧工事を業者に依頼する電話をかけていた。おそらく、一番早い依頼主であったと思う。惣誉の瓶詰め出荷は地震後も滞ることなくできた。義父の冷静迅速な判断には舌を巻くばかりである。

夕方、瓦が降ってくる状況のなか、「集荷の荷物、ありますかー?」と、運送会社のドライバーがやってきた。すらりと背が高く、ちょっといかつい顔に短いひげを生やした容貌から、彼のことを「EXILE」と呼んでいた。「まだ仕事してるんだ。えらいね。」と褒めて、いつもと変わらぬ彼に、動転していた気持ちが慰められたのが、記憶に残っている。