惣譽酒造株式会社

梅の花の咲く頃

2018
316
Fri

最近、ふとした拍子に、父のことを知っている人に出会うことがある。

直接は知らなくても、やっていた仕事を知っていたり、上司や、同僚だった人と知り合いだったりする。話のなかに、父の生きた時代が蘇ってくる。

家族としては、家庭の中の優しい父を知っていただけだが、会社人だった父を語ってくれる人と出会うと、なんだか誇らしくてとても嬉しい。結果的には、その会社人としての、あまりにもストレスの大きい仕事に耐えきれずに病を得てしまったと想像しているのだが、近くにいた仲間と共に、与えられた役割を、厳しい時代を生きていた。お酒の席での昔話に父が登場してくるとは思わなかった。こんなに亡くなってから時間が経っているのに、また、出てきてくれて、呼び出してきてくれて、皆さんありがとう、と、思う。

そして、そのような話をしたことも、供養になったのではないかしら、と、後から思う。

 

私の実家の父の命日は3月5日である。梅の花が咲いていて、クロッカスが咲いていて、もうすぐ春が訪れるという頃だった。今年も同じように花は咲き、同じように故人を思い出す。

 

 

父と母は、九州、福岡の出身である。九州大学を卒業して銀行に勤めた父は転勤となり、小さな娘と夫婦で東京に出てくる。前回の東京オリンピックの3年後である。開通したばかりの東海道新幹線に、新大阪から乗って、上京してきた。以来、東京のまわりでいくらか転勤はあったものの、単身赴任などもせず、弟も生まれて家族4人、社宅に住みながら、そのうち横浜に一戸建てを建てて、そこが今の私の実家となっている。福岡に親戚があって、故郷には違いないのだが、最北端の栃木に来た私にとって、とても遠く感じられる。しかし、博多弁を聞くと、温かく懐かしいのはずっと変わらず、栃木に住んだ期間が長くなっていても、栃木の言葉も博多の言葉も同じぐらいに真似することができる。実家での父母の会話は博多のイントネーションが抜けきらなかったと思う。博多の言葉は、聞いている相手に対して、なんとなくリラックスさせてくれるような、優しさと安心感がある。ふるさとだから、そう感じるのだろうか。

今どきは、ないのだろうか。30年前にはあったもののひとつで、私たちの結婚披露宴で各テーブルに色紙が回っていた。出席者が一言ずつ書いてくれている。そのなかで、自分の父と母の書いたセリフだけを、今でもよく覚えている。

母は、「おしとやかにね。」と一言。娘のわがままな激しい言動を心配していたのだろう。素直に納得。

そして、父は、「幸せになれよ。幸せとは、自分で作るもの」と、書いていた。こんなことを言うような人に思えなかったので、ちょっと、戸惑いを感じた。今になってみると、この言葉に込められた父親の、娘を見送る気持ち、「お前次第だ。」という、背中を押しやるような気持ちを、しみじみと感じる。

 

3月の寒さの中に暖かい春の空気が混ざり始めるこの時期、桜を見ずに逝ってしまった父を、毎年思い出している。